奥平貞昌(信長の偏諱を賜り信昌と改名)の戦功に対する褒美として家康は、名刀・大般若長光を授けて賞した。その上、翌年には長女・亀姫を正室とさせている。
なおこの年、家康は武田氏に奪われていた二俣城を奪還した。
天正7年(1579年)、信長から、正室・築山殿と嫡男・松平信康に対し、武田氏への内通疑惑がかけられた。家康は抗弁の使者を立てたが、信長からの要求は、信康の切腹であった。家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、正室を殺害し、嫡男に切腹させた。この事件は信長が自身の嫡男・織田信忠より優れた資質を持つ信康に危機感を覚えたため等、諸説あるが、近年では家康・信康父子が対立したためで、信長には了承を求めただけ(信康の正室が信長の娘であるため)、という説も強くなってきている。
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天正9年(1581年)3月23日、武田氏によって奪われていた高天神城を奪回した。
天正10年(1582年)2月、信玄の娘婿である木曾義昌が織田氏に寝返ったことを機に、信長は武田氏領国へ侵攻を開始する。家康は織田軍に協力し、駿河口から武田領に向かって侵攻した。これに対して、すでに連年の戦争による財政難などで民心が離反していた武田軍には組織的な抵抗力がなく、木曽口から攻め込んだ織田軍はあっという間に伊那城、松尾城を落とした。徳川軍も駿河国に侵攻して蘆田信蕃(依田信蕃)の田中城を成瀬正一らの説得により大久保忠世が引き取り、さらには勝頼の姉婿である穴山信君を調略によって離反させるなどして駿河国を占領した。これに対して勝頼に対抗する力はなく、最後は小山田信茂にまで裏切られ、3月11日に勝頼は甲斐国東部の天目山・田野において自刃、武田氏は滅亡した(武田征伐)。
家康はこの戦功により、信長から駿河国を与えられた。