安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての禅僧・大名。“安国寺”は住持した寺(安芸安国寺(不動院))の名である。毛利氏の外交僧(武家の対外交渉の任を務めた禅僧)から、最終的には僧侶の身分のまま大名となった。
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生年には諸説があり、天文8年(1539年)とも天文6年(1537年)ともいわれる。父親に関しても安芸武田氏の一族である武田信重の子とも、同じく安芸武田氏である武田元繁の娘婿・伴繁清の息子とも伝わる。
天文10年(1541年)、毛利元就の攻撃で安芸武田氏が滅亡すると、家臣に連れられて脱出し、安芸の安国寺(不動院)に入って出家した。その後、京都の東福寺に入り、竺雲恵心の弟子となる。僧侶としては天正2年(1574年)に安芸安国寺の住持となり、後に東福寺、南禅寺の住持にもなり、中央禅林最高の位にもついた。慶長4年(1599年)には建仁寺の再興にも尽力している。
一方、毛利家が恵心に帰依していた関係から、早くに毛利家に仕える外交僧となり、元亀元年(1570年)には豊後の大友家との和睦を取りまとめることに成功する。
天正10年(1582年)、毛利氏が羽柴秀吉(豊臣秀吉)と備中高松城で対陣していた(備中高松城の戦い)最中に本能寺の変が起き、織田信長が本能寺にて横死した。このとき羽柴秀吉はその事実を隠して毛利氏に和睦案を提示し、外交僧である恵瓊はその和睦を取りまとめた。彼は秀吉がこれから躍進することを予測して進んで和睦を取りまとめたとされ、秀吉の信任を得る。
外交(がいこう、英:Diplomacy)とは、外交官や首相などの国家の代表と外国の代表の国際社会における問題に対応することを目的としたさまざまな政治活動を指す。また、外交戦略に基づき立案される政策を外交政策、または実際に二国間ないし多国間で行われる具体的な国家間交渉を外交交渉という。
また外交という言葉は外国との交際に関わるさまざまな政治的活動の総称であるが、その内容には二つの意味に大きく分類することができると考えられている。ハロルド・ニコルソンの『外交』によれば、それは「外交交渉」という技術的側面と、「外交政策」という政治的側面である。外交という言葉は両者の全く性質が異なる概念を包括しており、使い分けられるべきものである。
今日、外交とは国家間の政府外交のみならず民間外交、議員外交、或いはNGOなどによるトラックII外交など、多様な主体が行う国際交流ないし交渉をさす。 但し、そもそも外交とは、国家が国益の最大化を図るために行う諸活動のことを指すものであり、国際社会一般、或いは国際法において正当な外交の主体とは国家であり、即ち具体的にはその国を代表する政府が担うことを基本としている。 外交における諸活動とは、一般的には国家による国際社会の軍事・経済・政治など諸問題に関する交渉活動である。外交そのものに独自の政治的役割があるわけではなく、本質的には他の分野との関係性の上に成立する手段的な存在である。現代の外交においては現実主義的な国益と国際法の観点からの国際利益の両者の追求が求められるため、その理念は基本的に二重構造となる。故にどうしても交渉においては理想と現実の妥協が大きな課題となる。
また外交は古来から秘密裏に行われてきており、また現代においてもその交渉の過程については秘密裏に行うことが認められている。これは交渉過程が明らかになることによって外交交渉の運用そのものが制限されることを避けるためであり、国際的に認められている外交上の慣習である。
外交は本来、政府間の交渉のことを指すが、昨今では一議員やNGO関係者が外国要人などと会談する、いわゆる民間外交や議員外交も盛んになっている。このような外交の場はセカンドトラックと呼ばれ、しばしば用いられているが、これを外交と呼ぶかどうかについては疑問を持つ専門家もいる。
歴史
外交の歴史は比較的新しいと考えられている。古代から、例えば手紙を持たせた使者を交換することや、戦場において停戦の交渉を行うために軍隊の指揮官が対面することなどの限定的、補助的な手段としての外交は行われていたが、外交を専門的に取り扱う部署を設けて、現代のように運用するようになったのは近世になってからであると考えられている。
ヨーロッパにおいて、絶対王政時代から第一次世界大戦終結までは、外交は貴族や国王などの一部の特権階級による宮廷外交が主流であった。各国の大使は母国から独立した大きな権限を保有しており、嘘や謀略を張り巡らし、軍事協定なども秘密にしたため秘密外交とも呼ばれ、旧外交として考えられている。当時は外交は軍事に従属するものであると考えられており、軍事作戦を優位に推し進めるために外交を行い、また優位に戦争を終結するために外交が行われた。これはマキャベリの現実主義的な政治観が基盤となっていた。しかし第二次世界大戦によって世界中が大きな損害を被り、国際連合の設立や国際協調主義、軍事力行使禁止の原則などを打ちたて、外交権は内閣へ移り、選挙を通じた民主的統制に基づく外交が行われるようになり、外交はその重要性を高めた。この外交形態の転換によって新外交が成立したと考えられている。
国際儀礼
外交において敬称、席次、マナーなどに見られる国際儀礼は一見無意味のように見えても、文化的、政治的な緊張を緩和させ、外交交渉をスムーズに進めるために、外交官に心得る事が重要視・要求されている。例えば国旗に関しては、国民国家の象徴であり、破損したものや汚れたものを使用してはいけない。この他にも各種国際儀礼が存在する。詳しくは国旗の項から「国際的な慣習」を参照。
外交と軍事
軍事と外交は密接な関係にあり、歴史上多くの戦争は外交と連動して行われている。その内容は利害調整のための討論から、降伏勧告までさまざまである。現代においては兵器の高額化や軍隊の大規模化、大量破壊兵器などの開発によって戦争のコストやリスクが飛躍的に高まっており、戦争に繋がる事件が発生しても、その戦争の発展を抑制しできるだけ交渉により解決しようとする傾向が強まっている。しかし現代においても軍事力は非常に外交上重要な要素を占めており、軍事演習や部隊配備による軍事プレゼンスは外交交渉に大きく影響しており、また実際に戦端が開かれれば軍事力の有無が国際関係を大きく変化させ、軍事的優位が外交的優位に繋がることもある。降伏勧告に関する外交交渉はこの典型例であり、軍事力によって相手国の生存を脅かすことは直接的な交渉材料となりうる。
外交と経済
経済上の利害は国益に直結するため、貿易の歴史において重要な外交課題となってきた。近年においても、グローバル化の急速な進展によって外交上非常に重要な議題となっている。またその内容もエネルギー保障、海洋資源、食料保障など多岐にわたる。例えば貿易収支悪化の是正のための関税引き上げ、貿易相手国に対する輸出の自主規制、内需拡大の要求などがある。経済支援や経済封鎖も外交上非常に大きな要素であり、相手国の経済を発展させることにより間接的に敵対勢力に対する包囲網を構築することや、見返りとして軍事的な支援を受けることもしばしば行われる。特定の資源を保有する国が資源輸出と外交的要求をセットにすることもある(資源ナショナリズム)。とくにエネルギー資源については世界経済の動向を左右するだけに、これを巡る外交的な駆け引きも国際関係上非常に重大なものになりつつある。
外交と情報活動
日々変化する国際情勢に対応するために、情報の収集、分析は外交には不可欠である。相手国のあらゆる分野の現状を把握することにより、外交交渉において相手国の外交官の言葉の背景や真意を推測することができ、有利に交渉を進める上で優位に立つことができる。ほとんどの外務省は在外公館の大使や駐在武官からの報告、マスメディアの報道、各国から提供される情報、情報機関から提供される情報などから、統一的に情報を収集し、分析を行っている。またシンポジウムなどにおける自国の国家戦略の広報や文化交流も外交における重要な役割の一つである。一方で秘密情報の流出を防ぐ防諜も外交においては重要な情報活動の一部である。外交交渉時の秘密保持は常に好ましい対応であると考えられている。
天正13年(1585年)1月、毛利氏が秀吉に正式に臣従する際の交渉を務めて、秀吉から賞賛された。そのため、四国征伐後は伊予に2万3000石を与えられ、天正14年(1586年)の秀吉の九州征伐後は伊予6万石に加増され、僧侶でありながら豊臣大名という異例の位置付けの大名となった。また同時に秀吉の側近も兼ねることとなり、秀吉の命令で行なわれた検地などの奉行を務めている。朝鮮出兵においても検使として渡海した。
恵瓊は毛利一族の中では親秀吉派の中心であった小早川隆景に近かったが、隆景が死去すると小早川氏と並ぶ毛利氏の支柱であった吉川広家と対立し、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは懇意であった石田三成と通じて西軍に与し、毛利一族の当主・毛利輝元を西軍の総大将として担ぎ出すことに成功した。
9月15日の関ヶ原における合戦では、毛利秀元・吉川広家とともに徳川家康軍の後方に陣取ったが、前に布陣する広家が家康にひそかに通じて毛利軍の参戦を阻んだため、戦闘に参加することなく終わった。
西軍の敗北後、恵瓊は逃亡したが京都で奥平信昌隊に捕縛され、西軍首脳の1人として、六条河原にて斬首された[1]。享年62。または享年64。
墓所は建仁寺本坊内の庭に首塚があり、広島の不動院にも墓がある。
人物
天正元年(1573年)12月12日付山県越前守・井上春忠宛書状で、「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」と書いており、織田信長の転落と、その家臣の羽柴秀吉の躍進を予想し、結果的にそれが的中したことで恵瓊の慧眼を示す逸話としてよく引き合いに出される[2]。これより派生して、『太閤記』における恵瓊は、無名時代の秀吉に「貴方には将来天下を取る相がある」と予言し、後年予言通りに天下人となった秀吉から領地を与えられる役どころとなっている。
長宗我部氏の外交僧でもある非有と共に一対坊主と称された。